琉球漆器とは
沖縄の漆器の歴史は長く、中国との貿易が盛んであった琉球王国時代14~15世紀頃中国から伝わったとされています。
漆器の特徴として乾燥するには温度と湿度が必要であり、年平均気温22.4℃、湿度77%の沖縄は漆器を作るのに非常に優れている環境です。
沖縄の漆器の歴史は発掘調査による出土品から13~14世紀ごろには存在していたと思われます。
15世紀に統一された琉球王国の王府の中には「貝摺奉行所」(かいずりぶぎょうしょ)を設け、そこで漆器の制作を管理していました。貝摺奉行所が記録として出てくるのは1612年ですが、それ以前から組織的に漆器を制作していたと考えられます。
「琉球漆器」という名称は昭和49年5月に伝統的工芸産業の振興に関する法律が制定されてた時から輪島塗、山中漆器、津軽塗、木曽漆器などと同じような呼び方になりました。
琉球では政治と信仰との結びつきが強く、祭祀や儀式などでは漆で塗られたものや漆の加飾技法で装飾された勾の首飾り玉なども使用されたり、琉球王国の王であった「尚家」(しょうけ)の文化遺産には、現在国宝に指定されている 宴会などで使われる「美御前御揃」(ヌーメーウスリー)と呼ばれる食籠と足付盆や酒器がセットになったものなどがあり、仏事や祭事などの特別な時に用いられたと考えられております。
王族や士族の屋敷や地方でもこうした漆器が神と人を結ぶ場や儀礼の場で用いられてきました。
中国皇帝が琉球王国を任命する冊封(さっぽう)により、琉球国王は皇帝の臣の一員として認められており、皇帝に貢物をささげる朝貢を行い、中国と貿易をすることが許されていました。
1373年以降約500年の間冊封、朝貢の関係が続いておりその中で琉球製の黒漆に螺鈿の加飾が施された盆や椀、漆塗鞘の刀剣などが多く贈られていました。
現在の北京の故宮博物院には堆錦や螺鈿の加飾のされた「東道盆」(トゥンダーボン)と呼ばれるご馳走を盛って客に出すための容器が所蔵されています。これらのいずれも非常に手の込んだ優品で、中国への献上品として特に力を入れて制作した事が伺え、そうしたものが琉球の朝貢を支えていたと考えられます。
1609年には薩摩が琉球へ侵攻し、その支配下に置かれました。薩摩がその時に琉球から接収し徳川家康に貢献したといわれる品の中に「巴紋鳳凰文沈金足付盆」などがあります。
薩摩の侵攻以降、琉球は日本との外交関係が非常に重要なものになり、徳川将軍が代替わりをした時など徳川家や大名家へ琉球漆器などを献上してきました。
このように様々な目的で作られた琉球漆器はその時代により技法や表現方法に変化が見られます。
16~17世紀は朱や緑の漆に細かな沈金技法を用いた作品や朱漆に螺鈿の作品などが多く見られ、17~18世紀は黒漆に夜行貝の赤や青を活かした細かな螺鈿の作品が中心となっています。
18~19世紀には黒漆螺鈿も作り続けられるが、朱漆に沈金(ちんきん)や箔絵(はくえ)、堆錦(ついきん)といった技法が盛んに用いられるようになりました。
1879年の琉球処分(廃藩置県)以後、貝摺奉行所は廃止され琉球漆器は民間工房や漆器会社による一般向けの食器やみやげ物として制作される事が多くなってきております。
もちろん私どもも一般向けやお土産品としての琉球漆器を販売はしておりますが、琉球最古の老舗としての誇りと伝統を受け継ぎ琉球漆器の技術を残していくことを使命とし作品作りを行ってまいります。
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Ryukyu lacqueware has a long history. It is believed to be brought during the 14th to 15th centuries in the Ryukyu Kingdom Era, when trade with China was flourishing.
As a distinguishing feature, lacquerware requires both temperature and humidity in order to season. Okinawa, where an average yearly temperature is 22.4 degree Celsius and average yearly humidity of 77 percent is an ideal environment for lacquerware production.
From unearthed articles of excavation, it appears that lacquerware already existed in the 13th to 14th centuries in Okinawa. The Ryukyu Kingdom was unified in the 15th century. “Kaizuri Bugyosho” was established among the royal government, which managed lacquerware production. “Kaizuri Bugyosho” appears on the record in 1612, but it seems that production of lacquerware was organized prior to the record.
The name “Ryukyu Shikki (lacquerware)” was designated in May 1974, when legislation of the traditional arts and crafts industry promotion was enacted, just like Wajima Nuri, Yamanaka Shikki, Tsugaru Nuri, and Kiso Sikki.
In Ryukyu, politics and religion had strong bond. In the ritual and ceremony, lacquerware or comma shaped beads decorated with lacquer were used. The cultural heritage of the king of Ryukyu “Sho Family” includes “Nuumeeusurii” which is a set of food containers, footed tray and bottle for liquor.
It is designated as a national treasure and is only used on special occasions, such as ceremonies and Buddhist rituals. Also, these lacquerware have been used at the residence of the royalty, the warrior class and the locality in ceremonies and occasions of bringing gods and men together.
In 1609 Ryukyu was invaded and came under the control of Satuma. “Tomoemon Hououmon Chinkin Ashitukibon (comma-shaped and phoenix emblem gold lacquer footed tray)” is one of the items that Satuma requisitioned from Ryukyu and contributed to Ieyasu Tokugawa.
Thereafter, diplomatic relations with Japan became essential to Ryukyu. Ryukyu presented lacquerware to the Tokugawa family and the feudal lord family at the change of shogun in the Tokugawa family.
As just described, techniques and styles of lacquerware differ according to the period, since the purpose of the production also varies. During the 16th to 17th century, works of red or green lacquer with delicate gold inlay or red lacquer decorated with mother-of-pearl inlay are most common.
During the 17th to 18th century, works of black lacquer with delicate inlay of green turban shell of red and blue colors became popular.
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冲绳的漆器据传是在14~15世纪时与中国贸易极为繁盛的琉球王国时代从中国传入的,有着悠久的历史。 漆器的一大特点是干燥时需要一定的温度和湿度。因此年均气温为22.4℃、湿度77%的冲绳非常适合漆器的制作。
冲绳漆器的历史根据挖掘调查的出土物品推断,大约在13~14世纪就存在了。 15世纪琉球王国统一后,设立了“贝摺奉行所”,专门管理漆器的制作。贝摺奉行所出现在史料记录中大概是在1612年,可见这以前就开始了有组织的漆器制作。
1974年5月传统工艺产业振兴有关法律制定后, 琉球的漆器才有了与轮岛涂漆、山中漆器、津轻涂漆、木曾漆器相同的正式名称--琉球漆器。
琉球的政治和信仰有着密切的关连。祭祀或仪式上常常使用漆器或漆料加饰的勾玉首饰。琉球国王“尚家”王室遗留下来的文化遗产中就有被指定为国宝的“美御前御套食器”(含宴会食笼、足付盆及酒器等)。 可见在佛事和祭事等特别场合有使用漆器的习惯。王族士族家庭甚至地方在举行礼仪或祭神的场合也同样使用漆器。
中国皇帝派遣册封使任命琉球国王,琉球国王由此被认为是皇帝之臣,于是开始向中国皇帝进贡,与中国展开了贸易往来。 册封和朝贡在1373年以后持续了约500年。贡品中有很多漆器作品,如琉球制黑漆上加饰螺钿的盆碗以及涂漆刀鞘的刀剑等等。
在现在的北京故宫博物馆里收藏着堆锦和螺钿技法的宴客食器-东道盆, 都是极为精美的佳作。可见当时对进献给中国的贡品注入了全力,这些精美的艺术品是琉球朝贡制度的支柱。 1609年萨摩入侵琉球,将琉球置于其统治之下。 当时萨摩进贡给德川家康的琉球制品中就有“巴纹凤凰文沉金足付盆”等琉球漆器作品。
萨摩入侵琉球以后琉球和日本的关系变得重要起来,德川将军更迭之时琉球会向德川家和领主们家进献琉球漆器。 不同时代的琉球漆器根据其目的在技法上和表现手法上各具变化。 16~17世纪时,朱漆和绿漆上点缀沉金技法的作品和朱漆螺钿作品居多,而17~18世纪以黑漆上点缀红色青色夜光贝螺钿的作品为中心。
18~19世纪继续制作黑漆螺钿,同时朱漆加饰沉金、箔绘、堆锦等技法也开始盛行。 1879年琉球处分(废藩置县)以后,贝摺奉行所被废除,取之而代越来越多的民间作坊和漆器公司开始制造一般的食器和礼品等琉球漆器。 角万漆器也开始了一般用品和礼品用的琉球漆器销售,同时,作为琉球最为古老的老字号漆器店,也不遗余力地致力于传承琉球漆器传统技法的作品创作。